バベルの回廊にて

読書あれこれ

Carcassone    ウィリアム・フォークナー著

またフォークナー。

フォークナーの短編集に「These Thirteen」(1931)というのがある。

最初の自選・短編集で、13の短編小説がおさめられている。

 

このなかの作品のひとつが、前回書いた「A Rose for Emily」。傑作と言われている短編。

この13作品のなかでも世評が高いのが、「Red Leaves」「That Evening Sun」など。

そしてこの短編集の最後にあるのが、「Carcassone」で、たった6頁ほどの物語なのか詩なのかわからない作品。

自選集のなかにこれを入れたかったのだから、フォークナーにとっては愛着のある作品なのだと思う。

「フォークナー全集8/これら13編」(冨山房)のなかに、林信行氏の翻訳で載っている。

 

私が「These Thirteen」のなかで好きなのは、「That Evening Sun」と、この「Carcassone」。

響きと怒り」のコンプソン家の子供たちが出てくる「That Evening Sun」は、南部の闇のなかでの恐怖と死の予感とに満ちていて、何度読んでも素晴らしい。

そしてわけがわからないながら、強く惹きつけられるのが「Carcassone」。

 

ストーリーはない。

一人の男が、酒場の屋根裏部屋に住んでいる。ネズミが走り回るようなその部屋で、彼は自分の夢想に耽溺している。

彼は自分のことを「skelton(形骸)」と呼ぶ。

実際、彼の生活はもう「生」よりも「死」に近いところにあるような気配がする。毛布もなく、tarred paper(タール塗りの紙)の下に横たわっている彼は、この世で「何も所有していない」。

そんな状況のなかで、彼は「青い電光のような目、もつれた焔のようなたてがみをもった野生馬にのって、天の高みに駆けていく」情景を夢想する。

「おれはなにか大胆な悲劇的なきびしいことがしてみたい」(I want to perform something bold and tragical and austere)そう彼は自分につぶやく。

ちなみにCarcassoneとは、フランスの城壁都市の名前のようだ。この短編とは何の関係もないが、主人公は中世の十字軍やノルマンの闘いをイメージし、自分が死んでいるのにも気づかず疾駆する馬もイメージする。

そして意識の片側で彼は、海の洞窟で波に揺れる自分のskeltonも思うのだ。

 

なぜこのわけのわからない短編に惹かれるのだろう。

私にはこの短編がフォークナーの自画像のように思えてしまう。

彼は社会的には、殆ど無能だったと言ってもいいかもしれない。父の世話で仕事についてもクビにされ(ちなみに私は郵便局長になった彼が、本ばかり読んでいて手紙の配達をせずクビにされたエピソードがなぜか好きだ)書くことと本を読むこと以外、何にも興味を持てなかった人だ。

自分の屋敷「ローアン・オーク」にこもり、ただひたすら自分の夢想のなかで、ヨクナパトーファ郡という地図にない世界を作り上げ、そのなかでまるで実在したかのような象徴的な人物たちを描き続ける。

そんな自身のありようを詩にしたのが、この短編のように感じられてしまう。

 

そして詩に近い作品のせいか、私の好きなフォークナー的な表現がたくさん出てくる。

冒頭の一節。

And me on a buckskin pony with eyes like blue electricity and a mane like tangled fire, galloping up the hill and right off into the high heaven of the world.

(そしておれは鹿皮色の野生馬にのっている それは青い電光のような眼、もつれた焔のようなたてがみをして丘をかけのぼり天の高みへとまっしぐらに駆けていく)

 

こういう、見方によれば少女趣味な文章をぬけぬけと書いてしまうのが、フォークナーの魅力。

それからこういうレトリックもいい。

a vacuum in which nothing, not even silence was.

(なにもない、静けさそのものさえない空白)

that steady decay which had set up within his body on the day of his birth.

(彼が生まれ落ちたその日から体のうちに始まっていたあの絶え間のない腐朽)

 

そしていつも最後の文章をきめるフォークナー。締めくくりは。

a dying star upon the immensity of darkness and of silence within which, steadfast, fading, deepbreasted and grave of flank, muses the dark and tragic figure of the Earth, his mother.

(それは光のうすれた一つの星となって、暗闇と静寂の無限の空間にまたたき、そのなかで、色うすれながら動かず、ひろくゆたかな胸をひろげ、墓なる横腹をよこたえて、彼の母、大地の暗く悲しそうな姿が、じっと思いに沈んでいる)

 

現実と夢想との対極的な世界のなかで、夢想の馬だけは駆け続け、そして生の二つの極限を「母」である地球が眺めている。

末尾の「mother」という言葉に、この詩世界のすべての矛盾も対立も収斂されていくような、そんな気持ちがするのは、私だけだろうか。

(文中の日本語訳は、すべて林信行氏のものです)

エミリーに薔薇を(ネタバレあり) ウィリアム・フォークナー著

フォークナーの仕掛け

フォークナーだけは英語で読みたいとずっと思ってきた。

何の作品だったか、最初にフォークナーを読んだとき、初めて「英語は美しい」と思った。

あたりまえだが、翻訳で読んでもそのリズムや音の美しさは伝わってこない。

 

英語は「音」の言葉という印象がある。

たとえ意味がわからなくても「音」と「リズム」が記憶に残る。

その音とリズムはどの言語よりすっきりしていると感じる。

 

この音とリズムを翻訳にうつすことの難しさと、結局翻訳ではこれは味わえないのだという悔しさ。

「エミリーに薔薇を」の仕掛けを知ると、それを痛切に感じる。

 

「エミリーに薔薇を」は、知る人ぞ知る、20世紀に書かれた短編小説のうちでも十指に入ると言われている名作。

ミステリーでもあり、ホラーでもある。

(ちなみにこの作品のように、ホラーと「愛」とが合体すると、格別の味わいが出るように思う)

 

英語もそれほど難しくなく、原文は辞書さえ引けばたいてい読めると思う。

ハードカバーで11頁かそこらのこの短編。

この短い物語のなかで何が起こっているのか。

 

エミリーはかつて南部の令嬢で、父とともに「邸宅」ともいえる屋敷に住んでいた。その父は若かったエミリーに言い寄ってくる男性をすべて退け、父が亡くなった時、エミリーはその屋敷に一人取り残されることとなる。

父が亡くなって次の夏、街に建設業者のホーマー・バロンという北部の若者がやってきて、彼女はバロンと外出するようになる。「北部の若者」とつきあうことは、街の女性たちにとって不謹慎なことに見え、彼らはそれを阻止しようと陰で動く。

ところがバロンは町から消え、それ以降、エミリーは殆ど家に閉じこもるようになる。ただ一人黒人の使用人だけが、家にいて、彼女の世話をしていた。

エミリーは年を取り、白髪になり、太っていく。

 

そしてエミリーは病死する。

好奇心を抑えきれない弔問客たちは、彼女が埋葬されるのを待って、40年間誰も入ることのなかった、二階の一室の扉を開く。

埃に覆われたその部屋は、まるで新婚夫婦の部屋のように薔薇色のカーテンで彩られている。しかしもちろん、その薔薇色はすでに色褪せている。

そして部屋には埃の積もった男性の身のまわりの品、スーツなども置かれていた。

 

弔問客たちは、部屋のベッドにホーマー・バロンを見つける。

すでに朽ち果て、骸になった彼の横には誰かが寄り添って寝た痕跡があり、客の一人はその枕の窪みから、白髪のひと房をつまみ上げるのだった。

 

このたった11頁の物語のなかで、フォークナーは南部の、土地と時代の制約のなかで生きた(生きざるを得なかった)女性の孤独と、その頑なさのなかに閉じ込められた儚い愛への希望を描き出す。

 

エミリーという米国南部の女性の孤立した寂しい一生、74年という歳月がここに凝縮されている。埃にまみれて。

 

フォークナーは、物語の中で、何かを「象徴」にして雰囲気を作り上げるのが非常にうまい。

この物語でも彼女の屋敷につもる「埃」(dust)が象徴的に使われている。

 

さて、英語で読まなければわからないフォークナーの「仕掛け」について。

フォークナーの物語では、いつも「始まり」と「終わり」の言葉が印象に残る。そういうふうに作られている。

 

この物語の終わり方。

枕の窪みから、エミリーの髪をつまみ上げるシーンが、最後のパラグラフになる。

“One of us lifted something from it, and leaning forward, that faint and invisible dust dry and acrid in the nostrils, we saw a long strand of iron-gray hair.”

 

一緒にこれを読んでいた友人が言った。

「ほら、最後のこのHAIRという言葉・・・・このH音で息を吐き出すでしょう? そうすると、その息で部屋の埃が舞うし、つまみあげられた髪が揺れるのよ」

それに気づいた友人も、もちろんフォークナーも、なんて天才なんだろう!

 

英語の息とともに舞い上がる埃。

確かにこれは、どうあがいても翻訳にはうつせない。

そうやって、私はどんどんフォークナーという天才にのめり込んでいくわけである。

      高橋正雄訳 (中公文庫)

     英語版(ハードカバー)

 

 

 

 

 

 

 

気を取り直して、改題。

しばらく書かずに放置してしまった。

このブログもネットの世界に無数に漂う「放置ブログ」のひとつになるところだった。

まぁ、殆ど誰も読んでいないのが幸い。

 

それにしても時々考える。

消去もせず、ああやって途中放棄されたブログの持ち主はどうしてしまったのだろうか?

書き始めたけれど飽きてしまったのなら、このネット空間のどこかに自分の痕跡が浮かんでいることに(ネットだと「浮かんでいる」という言葉がふさわしい)、気持ちが残らないのだろうか?

 

さて、このブログもそうなる可能性大いにありだが、私がこの世から消えたら消えるようにはしておきたい。

 

間隔が空いたので、この際タイトルを変え、内容も本についてだけでなく、音楽や映画についても書きたい。

また、私が今まで本を読んできたプロセスについて、外国文学に対してのこだわり、本を通じて知りえた人々についての思いなども雑多に書いていきたい。

 

また、対象にする本についてだが、新しいものばかりではなく、もう絶版になってしまった古い本、売れなかった本も積極的にとりあげていきたい。

翻訳本を手にとってみると、この分厚い本を訳しあげるのにどれだけの時間と労力がかかったかと、翻訳者の苦労を思ってしまう。

私自身も翻訳をしたことはあるので、どれだけの時間と集中力が必要か知っているし、誤訳への恐怖で辞書を調べまくったりもした。

(実は単行本の翻訳という作業では、その時間と労力に見合った印税が手に入ることは殆どない)

 

海外文学の場合、それだけの苦労をして出版した本がすぐに絶版になってしまう。

読者は国内文学のほうに目が行ったり、新しいものを追ったりで、良書がどんどんなかったことになってしまう。

 

良い文学が古くなるということはないと思うし、絶版でも古本屋で探して読む価値があるならそれでいいと思う。

 

さて、タイトル変更の理由だが、どうも私には海外文学は書かれた言葉で読みたいというこだわりがあるようだ。

書かれたそのままの言葉で本を読むのと翻訳で読むのとはこれだけ違うという衝撃を何度も味わい、自分の気に入っているものはできれば原語で読みたいと思うようになった。

 

ところが残念なことに、私は凡人で語学の才能がない。

記憶力も悪い。

どうがんばっても原書を読むとき、一頁にいくつもの言葉を辞書でひき、そして辞書をひく回数のあまりの多さに、もう読み進む気をなくしてしまう。

 

結局、文学の世界は「バベル」なのだ。

視覚が媒介になる絵画や彫刻、書字など、それから聴覚を媒介にする歌、音楽。字幕で理解できる映画やドラマ。

そういう芸術は、やすやすと国境を乗り越えて広まっていく。

ところが文学だけは、翻訳という作業を経なければ、まったく意味がつかめないし、文学の価値は、自国語に翻訳されたもので判断するしかない。

たくさんの専門家の手を借りなければ、文学は味わうことができないのだ。

 

なんとも悔しい事実。

そもそもこの世界に数限りない言語があり、私たちは近隣の国の人とさえ直接話し合うことができない。

旧約聖書で描かれるバベルの塔の物語を解釈すれば、神は意図的に言語を混乱させて、人間が相争うようにしたわけだ。

言語が同じなら争わないのかは、また別の問題。

 

海外文学好きにとっては、ボルヘスの言うように「あなたは私を読んでいるが、果たして、私の言語を理解しているという確信があるのだろうか?」(バベルの図書館/伝奇集)という問いをいつも突きつけられているようだ。

それでも、読む。

面白いし、楽しいから読んでしまう。

 

そんな読書人生の試行錯誤を書けたらいいと願っているが・・・。

 

 

血と言葉      マリ・カルディナル 著

溢れる言葉から見えてくるもの

 

突然だが、健康診断会場で採血のときに気分が悪くなって倒れる男性がまれにいる。

そういう男性を見ながら女性ナースは、多分心のなかで「くっ」と笑いをこらえているに違いない。

「これっぽっちの血で!?」

採血で驚いていたら女性はつとまらない。

女性は閉経まで月毎におびただしい量の血を眺めながら生きるのだし。

 

さて、この小説の主人公は、その経血が止まらなくなる。

彼女は三児の母だが、出血し続けるという症状とパニック障害を抱えている。

どの病院に行っても症状は治らず、万策尽きて、とある路地裏の精神分析医を訪ねる。

その医師は彼女に「それは心身症の症状です。私には関心がありません。他の話をしてください」と言う。

その乱暴な言葉にショックを受け、彼女は医師の前で泣き始める。それは彼女にとって久しぶりの涙だった。そして自分の苦しい感情について語り、その部屋をあとにする。

その晩、なんと彼女の出血はとまるのである。

それから、流れていた血は言葉の流れに変わる。

 

これは、とある女性の7年間にわたる週3回の精神分析の記録という形をとった物語。

 

治療費を稼ぐために働きながら、彼女は毎週3回その医師のもとへ通い、語り続ける。

彼女が語ったのは、自分の人生の物語、そして母のことである。

 

フランス領アルジェリアに生まれ、フランス人として使用人の家族に囲まれて暮らした日々。

母は28歳で父と離婚し、信仰にしがみつき、近隣の貧しい人たちや病んだ人たちを無料で治療し、疲れ果てて家に帰ってくる人だった。

その無料奉仕は、母が晩年に無一文になっても依怙地に続けられた。

 

母は信じるその教義で彼女に侵入し、罪悪感を植え付ける。

夫が結核になり、家が破産同然のときに母は彼女をみごもる。

赤ん坊のとき亡くなった最初の娘の墓前で泣きながら、母は、お腹の子を堕胎しようとどんなに工夫を尽くしたか、当の彼女に語るのである。

かといって娘に無関心というわけでもなく、長男がいながら、死ぬ間際まで彼女にしがみつくのだ。

晩年の母はニコチン依存であり、アルコールにも依存するという悲惨な姿を彼女にさらし、自殺同然の死に方をする。

 

上記のようなプロセスが、幼児期からの様々な記憶、無意識に潜んでいた感覚、時をさかのぼる夢などを織り込んで語られていく。

まるで頁から言葉が溢れてくるような本だ。

ひとつの描写のなかで言葉は言い換えられ、たたみかけられ、重ねられ、同じ意味が繰り返されるように見えながら、指し示すところが変化していく。

著者は言葉の積み重ねのなかで、心の微妙な部分、周囲の人間のありさま、社会の変化、そして社会のなかの女性のありかたに踏み込んでいく。

 

確かに、大量の言葉は私たちを迷路に誘うこともあるけれど、ものごとの単純化を阻む役割も持つかもしれない。

ある人にとっては、この物語の母は「毒親」のひとことで済んでしまうのかもしれない。

毒親」というわかりやすい説明語は、昨今とても好まれている。

それは単純化の極致のような言葉だ。

しかし著者は、言葉を重ね、表現を続けることによって、この「母」との数々の場面を描写し、母の立場に立ち、母の心にあった多様な側面を理解していく。

 

「彼女(母)の階級意識は、彼女が自活することも、女性に許された限度以上に精神を鍛練することも禁じていた。そうでなければ、母は天才的な外科医にも、創造的な建築家にもなれたはずなのに・・・。それはご法度だった!」

 

言葉を重ねることによって、彼女は女性である自分自身の肉体を理解し、同じ女性としての母を理解し、自身や母をとりまく「社会」を理解していく。

 

「私の、母の、そして黒衣の女性たちの身をすくませた恐怖は男根に対する恐怖ではなく、男性の権力に対する恐怖だったのだ。その権力を共有しさえすれば、恐怖は遠のく。もし、私自身が社会でなんらかの役割を果たしたかったら、私は身近なもの、自分が最もよく知っているもの、すなわちジャンピエール(夫)と子供たち、私たち5人、一家族、小宇宙、社会のパン種から出発しなければならない」

 

そして彼女は今まで既成の価値観のなかで営まれていた家族関係を見直し、夫との関係も再構築していく。

フロイト的な男女の「性」というところから、社会での性役割、そして社会の構造を著者は再考していく。

それも長い間の自己分析のなかから紡ぎだしていくのだ。

 

「激しい闘いを経て、遂に、うららかな春の陽光のもとに、晴れて母を愛せるとはなんとすばらしいことか。ともに属する階級の闘技場で、寸分の隙間なく武装し、爪をむき出しにして闘った二人の盲者。母の痛撃、私の猛毒!なんと残忍非道な闘いであったろう。精神を病まずにいたら、私はこの闘いから脱出することはできなかっただろう」

 

 

昨今、言葉というものはむしろ片隅に追いやられているのかもしれない。

本はなるべく文字を大きく、なるべく早く読めるように、冗長と思えるものは避ける、難しい言葉は簡単な言葉に言い換える。

そんな傾向がある。

確かに五感に訴えるものも貴重だとは思う。

しかしこの著作を読むと「文学」というもの、「言葉」というものが持つ力が再認識できる。

ものごとを単純化したり、極端化したりする傾向は、溢れる言葉やストーリーによって崩されてしまう。

 

人間が生み出した「言葉」や「文学」がどれだけ大切なものか。

それを考えさせられた本だった。

 

「血と言葉」Les Mots pour le Dire/The Words to Say It (1975)

  柴田都志子・訳、リブロポート (1983)

マリ・カルディナル、Marie Cardinal (1929-2001) フランスの作家、女優

ヴァルーナ  ジュリアン・グリーン著

この世の向こう側

 

今、自分が見ている現実だけが「世界」のすべてだと信じている人はどのくらいいるのだろうか?

日々、様々なことが生起しているこの地球で、生きて死んでいくこの人生。

そんな毎日のなかで、ふと「この世の外」のことを考える人のほうが多いのではないだろうか。

 

私が死んだら、「私」はどうなるのだろうか?

私の意識は、本当に私だけのものなのだろうか?

何か遠くのものと感応しあったりしているのではないだろうか?

 

そんな問いに答えるために生まれてきたのが「宗教」だろうし、流行のスピリチュアリズムだったりするのだろう。

 

この「ヴァルーナ」は、カソリックの作家、ジュリアン・グリーンの書いた「輪廻」についての物語。

 

「ヴァルーナ」は「ホエル」「エレーヌ」「ジャンヌ」の三章で構成されている。

そしてこの三つの物語をつなぐのが、不思議な一本の鎖(首飾り)。

共通して登場するのは鎖という「もの」であって、「人」ではない。
そしてこの鎖を手にした人は、自分の前世のかすかな記憶を思い起こす。

鎖は、生まれ変わった人の手に次々と渡されていくのだ。

 

この三人は決して特別な人たちではない。

歴史のなかに埋もれ死んでいった普通の人たちである。

千年ほどの時間のなかで、鎖は生まれ変わった人から人へと手渡されていく。

 

手渡された人たちは、しかし現代のドラマなどのように、生まれ変わって愛し合い、自分の前世をはっきりと思い出すなどということはない。

ホエルは途中で鎖をなくし、ホエルを待ち続けた運命の人モルガーヌを殺してしまう。

モルガーヌの生まれ変わりであるエレーヌは、ホエルの生まれ変わりである父によって不幸な運命に追いやられる。

エレーヌの生まれ変わりであるジャンヌは、エレーヌの生涯を小説にしようと努力しているが、ある日、大英博物館で一本の鎖を見たときこの鎖は自分のものだったという強烈な感覚にとらえられる。そしてエレーヌの夫もこの鎖を見た瞬間にかつてこの鎖を見たことがあるという衝撃を受ける。エレーヌの夫はホエルの生まれ変わりなのである。

 

物語は明確にはっきりと輪廻の道筋を示してもいないし、その理由を示してもいない。

輪廻という部分に関しては曖昧なのだ。

まるで眠りのなかで垣間見る夢の世界のように。

もしかしたらそうかもしれない・・・、なんだかそんな思い出があったようだ・・・。

しかし確かではない。

そんな雰囲気が物語全体を包んでいる。

 

「・・今でも私の心をかき乱すのは、ひとりの人間の生がほとんどいつも不完全に思えることである。ひとりの人間の生は、ある長いメッセージの中の孤立した断片に似ていて、そのメッセージの、しばしば解説できない、わずかな一部分しか、私たちに与えられていない」(ジュリアン・グリーン、「ヴァルーナ」序)

 

けれど三人の人生の輪郭自体は、明瞭な物語として描かれている。

ある意味、輪廻というものを描きながら、この小説はとても現実的なものなのかもしれない。

なぜなら、「この世の向こう側」は、こんなふうにしか私たちには見えないということを描いているのだから。

 

この世の限界、私たちの意識の限界。

この小説を書いているとき、作者のグリーンは、カソリックに回心したという。

そうしてみると、最後にジャンヌの夢のなかで、エレーヌがジャンヌの首の鎖に十字架を重ねたのも何かを暗示しているのかもしれない。

 

作者はこの作品で、この世の向こう側を含む人間の生というものの全体をとらえたかったのかもしれない。

「わたしたちの考えることはどこからやってくるのだろうか。測り知れないほど遠い彼方からなのだ。たったひとりの人間の頭脳のなかに人類がゆっくりおさまっている。わたしたちひとりひとりが、自分だけで人類全体なのだから。」(「ヴァルーナ」ジャンヌの言葉)

 

ユングのように、人間の意識、無意識を理論化しようとしても、結局はその理論が確かなものかどうかは、誰にもわからない。

わたしたちはいつも不確かな感覚のなかに取り残され、永遠の疑問符を持ち続けるだけの存在なのかもしれない。

 

注:「ヴァルーナ」は、古代インドのヴェーダ神話の首位を占める神。全知全能で、日月の運行、四時の循環を司り、死を遠ざけ、長寿を与えるとも言う。

 

注:ジュリアン・グリーン、Julien Green(1900-1998) フランス、米国の小説家。米国人の両親の元、パリで生まれる。ピューリタンだったが、後にカソリックに改宗。日本では人文書院から全集が出ている。

 

 

 

「ヴァルーナ」ジュリアン・グリーン高橋たか子訳(人文書院、1979年)

82年生まれ、キム・ジヨン  チョ・ナムジュ著

事実の迫力

韓国小説は実は初めて。

この本をもとにした映画も見たが、小説のほうが迫ってくるものはあった。

もちろん映画では、キム・ジヨン氏のひとつひとつの内的体験を言葉で語るわけにはいかない。

だからそれは仕方のないことかもしれない。

 

この小説では、主人公のキム・ジヨン氏が、淡々と自分の身に(あるいは母の身に)起こった「事実」を語っていく。

感想・感慨ではなく、時系列でジヨン氏の経験した「事実」が語られていくことにこそ、この小説の迫力がある。

 

この物語は精神科医のカルテという形式をとり、ジヨン氏の幼い頃からの生活を追っていく。

キム・ジヨン氏は、30代女性、大学を出て広告代理店に勤め、結婚して一児の母となり、そして子育てとの両立が不可能となり、家庭に入る。

そのような不本意な子育て中のある日、子供とともに行った公園で、コーヒーをテイクアウトして飲んでいるときに近くのサラリーマンたちが、彼女のことを「俺も旦那の稼ぎでコーヒー飲んでぶらぶらしたいよなあ・・・ママ虫もいいご身分だよな・・・韓国の女なんかと結婚するもんじゃないぜ」と仲間に言う。

(ママ虫とは韓国のネットスラングで、専業主婦を嘲るかなりきつい用語であるらしい)

 

それからキム・ジヨン氏は、時々別人になるという症状を出すようになった。

 

それにしても、物語られていく様々な事象は、あまり感情を交えずに語られているが、日本にいる私たちにも思い当ることは多い。

もちろん日本も韓国も急速に変化している社会なので、すでに過去のものになっている部分はあると思う。

 

日本ではもう「家制度」の呪縛は少なくなっており、男の子が喜ばれるなどということはあまり聞かない。

長幼の序が重んじられている韓国のほうが、姑が強く、一番弱い立場の嫁はきついのかもしれない。

小学校、中学校、高校の男女差別は思い当らないが、男女の入学差別は日本のほうがかなり課題ありと思われる。

都立高校の男女別定員が見直されたのが今年。撤廃するには段階が必要だそうだ。

どこかの医科大学など、点数に関わらず男性を優先合格させていたとか。

つまりこれは、放っておいたら女性のほうがたくさん合格するという事実を回避したいため。

 

そして就職差別、セクハラまがいの面接選考。

そうやって就職しても、また賃金差別がある。

仕事をしながら子育てをするのは、お金がかかりすぎるし、結局女性のほうが仕事を辞めて子供を育てるという道を取らざるを得ない。

 

女性が自己実現するのは、まるで障害物競走をしているようなものかもしれないと、読んでいて感じた。

 

キム・ジヨン氏の主治医が言う。

「私がまるで考えも及ばなかった世界が存在する」

 

多分、男性が考えも及ばない、想像もできないことが、この著作にはしっかり書かれている。

 

女性であることの生理的な困難。

女性にだけ訪れる「生理」というもの。その苦しさ。

生理のときに働かなくてはならないつらさもさることながら、生理前にはPMS月経前症候群)というものがある。

PMSにどうしようもなく影響されてしまう人もいる。

 

そして通学、通勤のバスや電車のなかで頻繁に受ける痴漢行為。

セクハラ行為はいたるところに待ち受けている。

 

苦しいお産をすればしたで、自然な育児、母乳育児を強要される。

キム・ジヨン氏は言う。

「子どもを産む母親には、痛みもしんどさも死ぬほどの恐怖も喜んで受け入れて勝ち抜けというのである。それが母性愛であるかのように。母性愛は宗教なんだろうか。天国は母性愛を信じる者のそばにあるのか」

 

この本の解説にあったが、現在韓国では「女性VS男性」という対立が際立ってきているという。

「男性は兵役があるのに」という論理で不公平感がつのっているらしい。

男女の差異は自然性に根ざしているので、公平性という論理がすべてに当てはまるわけではない。

しかし自己実現したい女性にとって、社会が障害物競争を強いていることはこの小説に語られる事実から読み取ることができる。

その事実をどうするかは、これからの社会や個人が考えていかねばならないことだ。

 

けれど少なくとも、現在苦しんでいる女性にとって必要なことは、「女性だから仕方ない」と、この障害物を「当たり前」のように受け止めてしまい、結果として自分を差別することに加担しないことだろう。

 

チョ・ナムジュ著 斎藤真理子・訳 筑摩書房

シブヤで目覚めて / アンナ・ツィマ著

「憧れ」の本質

 

読書歴はひとまず置いて、現在の読書に戻ろう。

 

「シブヤで目覚めて」は日本とチェコを舞台にしたチェコの作家による長編小説。

タイトルのシブヤは渋谷のことで、主人公ヤナの魂が閉じ込められてしまう場所。

 

本題に入る前だが、なぜ海外の人はあんなにも渋谷に惹かれるのだろう。

ソフィア・コッポラの映画「ロスト・イン・トランスレーション」でも、渋谷のスクランブル交差点が印象的にとりあげられていた。

 

「渋谷がきらめいている。ブルー、レッド、イエローの光が次々ときらめく。まるで万華鏡の中を歩いているみたいだ」(本書)

 

この物語の主人公はチェコの大学で日本語を学んでいるヤナという女性。

作家志望の彼女は、なぜか日本に惹かれ、三船敏郎に惹かれ、日本に行きたいという思いを持ちながら日本文学を勉強している。

彼女の研究対象は、ミステリー小説だが、それとは別に1920年代に「分裂」という小説を発表した川下清丸という作家に惹かれている。

川下の「分裂」という小説の中では、主人公は自分が調査していた殺人事件にとりつかれ、彼の魂は分離して事件の舞台となった四国をさまよい続ける。

そしてヤナは、この作家の「恋人」という作品を読もうと、本を取り寄せるが歯が立たない。

その小説を読み解くために、彼女はクリーマという同じ日本文学を研究している男性と親しくなる。

 

ところがその一方でヤナは、友人と出かけた日本旅行の最中に、魂だけが渋谷に取り残されてしまう。

どうやって脱出しようとしても、必ずハチ公前に帰ってきてしまう。

渋谷でさまよっている彼女は「幽霊」なので、誰の目にも触れないし、飲み食いする必要もない。

「幽霊」はシブヤから脱出するために、日本語の勉強をしながら、何年もの時間を過ごす。そしてヴィジュアル系バンドの青年「仲代」に目をとめ、幽霊の身ながら彼の危機を救ったりする。

ところが、幽霊ヤナは、東京に来たクリーマに出会い、なぜか彼だけはヤナを見ることができる。

クリーマに触れているとヤナはシブヤから出ることができ、二人はアキラ(仲代)を巻き込みながら、川下清丸の謎を解くために川越に出かけていく。

そして最終的に幽霊のヤナは川下の未亡人と出会い、未発表の未完小説「川を越える」を手渡される。そこでヤナの幽霊は消滅する・・・

 

この小説は、入れ子構造のような複雑な構成を持っている。

チェコのヤナとクリーマとアキラ、渋谷にいるヤナの幽霊とクリーマと仲代(アキラ)の物語、そのなかを一貫したテーマのように流れているのが、川下清丸の「恋人」という小説の翻訳進行。

その小説が謎解きのように、ヤナの翻訳とともに徐々にその全体像を見せてくる。

 

そしてもちろん、この「川下清丸」という作家は、作者の創造した架空の人物。

しかし彼がその時代の日本の作家との関連で語られるので、読者はあたかもこの作家が実在したかのように錯覚してしまう。

 

それに名前を引用される日本の作家、作品の多さに、チェコにではこんなに日本の作家の翻訳が出ているのかと驚かされる。

それを引用できる作者の知識量もすごい。

翻訳されていて当然ともいえる村上春樹三島由紀夫、阿部公房などの他にも松本清張高橋源一郎関川夏央横光利一などの名前が出てくる。

そして古典文学。一茶や伊勢物語などの他にも「古今集」の抄訳「行く水に数かく」という本が紹介されている。

そのなかのひとつの歌の翻訳がこの本に掲載されている。

 

凡河内躬恒 雪ふりて人もかよはぬ道なれやあとはかもなく思ひ消ゆらむ

 

(翻訳)

人なき道に

雪降りて

足跡を消す

我は道、悲哀は雪

我が足跡を辿る者いずこに

 

「これを読んで初めて、文学や詩は何百年も離れた人々の感情を結びつけることができるのだと意識した」とヤナは言う。

 

この小説は、「憧れる」という心情の本質を描いているのではないだろうかと、私は思う。

ヤナは遠い日本に憧れ、過去の作家、川下に憧れ、魂だけが渋谷を彷徨う。

川下清丸の作品でも、主人公はとある殺人事件に魅了され、魂が四国を彷徨い続ける。

そして彼は「水」にも魅了され、入水自殺をしてしまう。

 

「大事なのは、何かに惹きつけられたと思ったら、その内側から崩れていくところ」

作中人物クリーマは、意味深長な言葉を言う。

 

時空を超えて何かに惹かれ、その「何か」に手をのばそうとして、自分自身の内部が現実と幻想の狭間で引き裂かれてしまう。

「憧れ」とは、きっとそういうものなのだ。

 

アンナ・ツィマ 阿部賢一 須藤輝彦訳 河出書房新社 2021 

Anna Cima,  Probudim se na Sibuji ©2018

 

Anna Cima 1991年 プラハ生まれ カレル大学哲学部日本研究学科を卒業後、日本に留学 本書で2018年デビューし、チェコ最大の文学賞であるマグネジア・リテラ新人賞、イジー・オルテン賞、「チェコの本」文学賞受賞