バベルの回廊にて

読書あれこれ

気を取り直して、改題。

しばらく書かずに放置してしまった。

このブログもネットの世界に無数に漂う「放置ブログ」のひとつになるところだった。

まぁ、殆ど誰も読んでいないのが幸い。

 

それにしても時々考える。

消去もせず、ああやって途中放棄されたブログの持ち主はどうしてしまったのだろうか?

書き始めたけれど飽きてしまったのなら、このネット空間のどこかに自分の痕跡が浮かんでいることに(ネットだと「浮かんでいる」という言葉がふさわしい)、気持ちが残らないのだろうか?

 

さて、このブログもそうなる可能性大いにありだが、私がこの世から消えたら消えるようにはしておきたい。

 

間隔が空いたので、この際タイトルを変え、内容も本についてだけでなく、音楽や映画についても書きたい。

また、私が今まで本を読んできたプロセスについて、外国文学に対してのこだわり、本を通じて知りえた人々についての思いなども雑多に書いていきたい。

 

また、対象にする本についてだが、新しいものばかりではなく、もう絶版になってしまった古い本、売れなかった本も積極的にとりあげていきたい。

翻訳本を手にとってみると、この分厚い本を訳しあげるのにどれだけの時間と労力がかかったかと、翻訳者の苦労を思ってしまう。

私自身も翻訳をしたことはあるので、どれだけの時間と集中力が必要か知っているし、誤訳への恐怖で辞書を調べまくったりもした。

(実は単行本の翻訳という作業では、その時間と労力に見合った印税が手に入ることは殆どない)

 

海外文学の場合、それだけの苦労をして出版した本がすぐに絶版になってしまう。

読者は国内文学のほうに目が行ったり、新しいものを追ったりで、良書がどんどんなかったことになってしまう。

 

良い文学が古くなるということはないと思うし、絶版でも古本屋で探して読む価値があるならそれでいいと思う。

 

さて、タイトル変更の理由だが、どうも私には海外文学は書かれた言葉で読みたいというこだわりがあるようだ。

書かれたそのままの言葉で本を読むのと翻訳で読むのとはこれだけ違うという衝撃を何度も味わい、自分の気に入っているものはできれば原語で読みたいと思うようになった。

 

ところが残念なことに、私は凡人で語学の才能がない。

記憶力も悪い。

どうがんばっても原書を読むとき、一頁にいくつもの言葉を辞書でひき、そして辞書をひく回数のあまりの多さに、もう読み進む気をなくしてしまう。

 

結局、文学の世界は「バベル」なのだ。

視覚が媒介になる絵画や彫刻、書字など、それから聴覚を媒介にする歌、音楽。字幕で理解できる映画やドラマ。

そういう芸術は、やすやすと国境を乗り越えて広まっていく。

ところが文学だけは、翻訳という作業を経なければ、まったく意味がつかめないし、文学の価値は、自国語に翻訳されたもので判断するしかない。

たくさんの専門家の手を借りなければ、文学は味わうことができないのだ。

 

なんとも悔しい事実。

そもそもこの世界に数限りない言語があり、私たちは近隣の国の人とさえ直接話し合うことができない。

旧約聖書で描かれるバベルの塔の物語を解釈すれば、神は意図的に言語を混乱させて、人間が相争うようにしたわけだ。

言語が同じなら争わないのかは、また別の問題。

 

海外文学好きにとっては、ボルヘスの言うように「あなたは私を読んでいるが、果たして、私の言語を理解しているという確信があるのだろうか?」(バベルの図書館/伝奇集)という問いをいつも突きつけられているようだ。

それでも、読む。

面白いし、楽しいから読んでしまう。

 

そんな読書人生の試行錯誤を書けたらいいと願っているが・・・。