82年生まれ、キム・ジヨン チョ・ナムジュ著
事実の迫力
韓国小説は実は初めて。
この本をもとにした映画も見たが、小説のほうが迫ってくるものはあった。
もちろん映画では、キム・ジヨン氏のひとつひとつの内的体験を言葉で語るわけにはいかない。
だからそれは仕方のないことかもしれない。
この小説では、主人公のキム・ジヨン氏が、淡々と自分の身に(あるいは母の身に)起こった「事実」を語っていく。
感想・感慨ではなく、時系列でジヨン氏の経験した「事実」が語られていくことにこそ、この小説の迫力がある。
この物語は精神科医のカルテという形式をとり、ジヨン氏の幼い頃からの生活を追っていく。
キム・ジヨン氏は、30代女性、大学を出て広告代理店に勤め、結婚して一児の母となり、そして子育てとの両立が不可能となり、家庭に入る。
そのような不本意な子育て中のある日、子供とともに行った公園で、コーヒーをテイクアウトして飲んでいるときに近くのサラリーマンたちが、彼女のことを「俺も旦那の稼ぎでコーヒー飲んでぶらぶらしたいよなあ・・・ママ虫もいいご身分だよな・・・韓国の女なんかと結婚するもんじゃないぜ」と仲間に言う。
(ママ虫とは韓国のネットスラングで、専業主婦を嘲るかなりきつい用語であるらしい)
それからキム・ジヨン氏は、時々別人になるという症状を出すようになった。
それにしても、物語られていく様々な事象は、あまり感情を交えずに語られているが、日本にいる私たちにも思い当ることは多い。
もちろん日本も韓国も急速に変化している社会なので、すでに過去のものになっている部分はあると思う。
日本ではもう「家制度」の呪縛は少なくなっており、男の子が喜ばれるなどということはあまり聞かない。
長幼の序が重んじられている韓国のほうが、姑が強く、一番弱い立場の嫁はきついのかもしれない。
小学校、中学校、高校の男女差別は思い当らないが、男女の入学差別は日本のほうがかなり課題ありと思われる。
都立高校の男女別定員が見直されたのが今年。撤廃するには段階が必要だそうだ。
どこかの医科大学など、点数に関わらず男性を優先合格させていたとか。
つまりこれは、放っておいたら女性のほうがたくさん合格するという事実を回避したいため。
そして就職差別、セクハラまがいの面接選考。
そうやって就職しても、また賃金差別がある。
仕事をしながら子育てをするのは、お金がかかりすぎるし、結局女性のほうが仕事を辞めて子供を育てるという道を取らざるを得ない。
女性が自己実現するのは、まるで障害物競走をしているようなものかもしれないと、読んでいて感じた。
キム・ジヨン氏の主治医が言う。
「私がまるで考えも及ばなかった世界が存在する」
多分、男性が考えも及ばない、想像もできないことが、この著作にはしっかり書かれている。
女性であることの生理的な困難。
女性にだけ訪れる「生理」というもの。その苦しさ。
生理のときに働かなくてはならないつらさもさることながら、生理前にはPMS(月経前症候群)というものがある。
PMSにどうしようもなく影響されてしまう人もいる。
そして通学、通勤のバスや電車のなかで頻繁に受ける痴漢行為。
セクハラ行為はいたるところに待ち受けている。
苦しいお産をすればしたで、自然な育児、母乳育児を強要される。
キム・ジヨン氏は言う。
「子どもを産む母親には、痛みもしんどさも死ぬほどの恐怖も喜んで受け入れて勝ち抜けというのである。それが母性愛であるかのように。母性愛は宗教なんだろうか。天国は母性愛を信じる者のそばにあるのか」
この本の解説にあったが、現在韓国では「女性VS男性」という対立が際立ってきているという。
「男性は兵役があるのに」という論理で不公平感がつのっているらしい。
男女の差異は自然性に根ざしているので、公平性という論理がすべてに当てはまるわけではない。
しかし自己実現したい女性にとって、社会が障害物競争を強いていることはこの小説に語られる事実から読み取ることができる。
その事実をどうするかは、これからの社会や個人が考えていかねばならないことだ。
けれど少なくとも、現在苦しんでいる女性にとって必要なことは、「女性だから仕方ない」と、この障害物を「当たり前」のように受け止めてしまい、結果として自分を差別することに加担しないことだろう。
チョ・ナムジュ著 斎藤真理子・訳 筑摩書房