バベルの回廊にて

読書あれこれ

アンネの日記 / 夜と霧 

「黒んぼのペーター」を書いたら、その後の自分の読書歴を書きたくなった。

インパクトのあった一番古い読書体験が前回の本だったとしたら、その後、手にとった本もまた私の人生のなかで、原体験のように残る本だった。

 

「黒んぼのペーター」の作者も、ナチスによって迫害された人だったが、今あらためて考えると、私はこの時期、第二次大戦とナチスによる強制収容所関連の本を立て続けに読んでいたことになる。

不思議なめぐりあわせだ。

 

アンネの日記」の増補改訂版を手に入れ、読み始めたら、内容の強烈さと自分の原体験状況が生々しく思い出されて心が落ち着かず、なかなかブログを書くところにたどり着けなかった。

 

多分、この本は小学生の私が勘違いして手にとった本だと思う。

アンネの日記」という書名は、予備知識がなければ少女趣味に見える。

少女小説的な内容だという先入観で読み始めて、やめられなくなった記憶がある。

予想を覆す衝撃だった。

私の世界に対する見方が大きく広がった体験だったかもしれない。

 

内容は、もちろん殆どの人が知っているだろう。

第二次大戦中にナチスから逃げ、アムステルダムの隠れ家で暮らしたユダヤ人少女の日記をそのまま出版したもの。

 

アンネ・フランクは、1942年6月、誕生日プレゼントとしてこのノートを手に入れ、1944年8月まで、ノートに「キティ」という名前をつけて、日記として書いていた。

1944年8月4日、最後の日記から3日後、彼女の一家が住む隠れ家はナチスに密告され、一家は連行されて、強制収容所に送られてしまう。

隠れ家に住んでいた人々のなかで、生き残ったのは、アンネの父のみ。

それ以外の人々は、もちろんアンネも含め、全員強制収容所で亡くなった。

 

アンネは13歳から15歳までの間、日記を綴ったわけだが、自分自身についての洞察、周りの人間観察、自分をとりまく世界情勢の知識を見ると、その年の少女とは思えない卓抜した能力を感じさせる。

 

私が最初にこの日記を読んだときには、「隠れ家」の人間関係が強く印象に残った。

日記には、閉鎖された(外部との交流が最小限である)空間で、二家族が暮らすなかで起きてくる様々な諍いがリアルに描写されている。

外界との接触を断たれて開放性を失った家族が必然的に陥る状況のように思えた。

 

そして現在のコロナの状況で、こんな家族も増えているのかもしれないと、あまり関係のないことも再読して考えた。

 

私はこの本で、ナチスのこと、強制収容所のことを知り、その後中学生のときにフランクルの「夜と霧」に進んだ。

多分1961年発行の「フランクル著作集」のなかの一巻。

 

まずは巻頭グラビアの資料写真で、あやうく本を取り落としそうになった。

それでも、最後まで読んだと思う。

 

私はその頃、まだフランクルの言う「創造価値、体験価値、態度価値」という概念に感銘を受けるほどの咀嚼能力はなかったと思う。

ただただ、人間が同じ人間に対してこのような残酷なことができるということに、衝撃を受けた。

あのアンネもこういう目にあったのだと悲しい思いがした。

 

今となって思えば「アンネの日記」「夜と霧」の二冊を若い頃読めたことが、私の世界への視野を大きく広げてくれていると思う。

赤毛のアン」や「あしながおじさん」みたいな少女小説だけでなくてよかった。

 

戦争というものが、どういう現実を伴っているものか、国や信条で分かれて戦うということが、どんな「具体的な」結果をともなうか、観念ではなく実感に近いもので学ぶことができたと思う。

 

そういえば2014年に東京で「アンネの日記破損事件」があった。

逮捕された犯人は、若干、妄想があった人のようだ。

アンネの日記ホロコースト関連の本を破損し、「アンネの日記は偽物だ」と言ったと伝えられる。

彼は本当に「アンネの日記」を読み、そのうえで偽物と思ったのだろうか。

彼のなかでは、戦争で犠牲になった人たちもまた、偽物のように遠い存在だったのだろうか。

 

アンネ・フランク(Anne Frank) 深町眞理子・訳 (文藝春秋

ヴィクトール・E・フランクル(Viktor E. Frankl)池田香代子・訳 (みすず書房

黒んぼのペーター

「黒んぼのペーター」エルンスト・ヴィーヘルト/國松孝二 訳

岩波少年文庫 106)

 

のっけから、ポリティカル・コレクトネスに抵触するようなタイトルの書籍。

タイトルにある「黒んぼ」とは、この物語の主人公が炭焼き人の息子で毎日真っ黒になって炭を焼いているのでつけられたあだ名で、人種的な意味合いはない。

 

この本には、タイトルにある物語を含め7編の童話が収録されている。

発行はなんと昭和30年。

今となっては、入手はとても難しい本だと思う。

その頃、日本ではヴィーヘルトの本はいくつか出版されていたようだが、多分もう図書館で見つけるしかないだろう。

 

読書ブログを書こうとしたとき、自分の印象に残っている一番古い本はと考えて、この本を思い出した。

 

私は小さい頃からいわゆる「本の虫」だったから、世界の名作と言われるものを含め、かなりの数の本を読んでいたと思う。

けれど何よりも強烈なインパクトを受けたのがこの童話集。

 

まるで子供向け物語という花園のなかに突然ブラックホールが出現したようだった。

 

童話集なのにも関わらず、この本はとにかく暗い。

物語はすべてハッピーエンドなのだから、暗いはずがないのだが、なぜかイメージに蘇るのは暗い森の奥、洞窟、荒涼とした旅路。

その暗さを際立たせているのが、ハンス・マイトという人による挿絵。

この独特の挿画に気持ちを奪われて、それで印象に残っていたのかもしれない。

 

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しかし、あらためてこの物語を手にとり、訳者の解説を読んで、この暗さの意味が理解できた気がした。

著者のヴィーヘルト(Ernst Wiechert,1887-1950)は、ナチスの時代に生きたドイツの作家。

大学で反ナチの講義をしたことで強制収容所に送られ、解放されてから東プロシャという片田舎にこもって執筆を続けた。

1945年から1年間に40篇の童話を書いたという。

 

この童話集の一篇「もうない鳥」は王国奪還の物語である。

暴虐を極める王は、慈悲の心を持った王妃と三人の息子を処刑してしまう。

しかし末の王子は、領民たちの手によって救い出され、森の奥で成長する。

彼は自分が何者かも知らず、森のなかで自然と交流して暮らす。

 

「(王子は)あらゆる動物と友だちになり、あらゆる草となじみになりました。高いモミの梢も、王子がやってくると、ざわざわ音を立てておじぎをし、澄んだ泉も、親しそうに、王子の素足のまわりにさらさらと水音を立てました。

しかし、王子はいつでも、まだこれがさいごではないというような気がしていました。いつかそのうち、動物も草も、木々も泉も、自分に話をはじめるだろう、そしてそのときには、自分の思い出のうしろを閉ざしている霧の壁が、音もなく開くだろう、というような気がしていました」

 

王子は森のなかで成長し、やがてアダムとイブが楽園を出ていくときに鳴いたという「もうない鳥」を携えて、王のいる「死の都」へと向かう。

暴虐な王は「もうない鳥」の鳴き声を聴くと、何も生み出すことができなくなり、自害して果て、王国は王子のものになる。

もちろんこの王国が何を表しているかは、今となっては誰でもわかること。

 

ヴィーヘルトの童話には、幼い人が様々な修練や体験を経て、幸せになっていくというモチーフのものが多いようだが、彼らが体験するのは力や武芸の修行ではない。

幼い人は、動物や森の木々や花々という自然に囲まれ、素朴な農民や不思議な小人たち、魔法使いなどに導かれて、正しい心、清い心を育んでいく。

 

またこの童話集のなかの「沼の主モールマン」では、異形の者、社会からはじき出された者への共感も語られる。

 

ヴィーヘルトはもう二度とナチスのような歪んだ帝国を生み出さないために、若い世代に希望を託したのだろう。

記憶のなかから探り当てた本だが、こんな時代背景だったのだと改めて知ることができたのは収穫だった。

 

そして考えてみると、思春期にもならない頃に読んだこの童話集、特に「モールマン」という異形の原型への共感は、私のなかに棲みついているような気がする。

まだまだ心が柔軟な時代に接する文章やアートは、その人の人生に決定的な色づけをする。

至極当たり前のことだが。 

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読書椅子購入

 

最近、読書のための長座椅子を購入。

俗に言う「ゲームチェア」を読書椅子と呼ぶことにする。

 

一昨年までは読書に集中するときは喫茶店を使っていたけれど、コロナ禍でそれも難しくなってきた。

考えてみると、今まではどんなところで読書していたのだろう。

居心地の良さはあまり考えず、自宅の机とか、図書館の机とか・・・。

 

居心地の良い椅子を手に入れたことだし、これを機に自分の読書体験でも書いてみようか。

 

 

インターネットで世界中と繋がれるというひと昔前では信じられない世界が手に入ってしまったけれど、ただ、自分がたくさんの人と繋がっているという幻想が生まれただけかもしれない。

 

本当のところは、ネットのなかに張り巡らされて様々な「しかけ」によって、私たちはどんどん自分のなかに閉じ込められていっているのかもしれない。

 

ネットの世界はオートマチックに「私」の興味に媚びて、興味の内側だけ増幅させていく。

「私」が忘れているものはずっと忘れられたまま。

それでいて私たちに広い世界を把握しているという錯覚を抱かせる。

 

埋没してしまったものは、埋没したまま、探し出されることもない。

どこかで少しの能動性を発揮しないと、閉じ込められた世界のなかでそのまま流されていきそうだ。

 

もちろん心を揺らす発見もネットの世界だからできることもある。

ネットの片隅に存在する情報も、はじき出されてしまった情報も、遠くに埋もれてしまった過去の風景も、能動的に呼び戻そうと思えば私たちの心に帰ってくる。

 

自分という小さな器のなかからでも、文化の片隅にあるものを発信できるという強みもネットにはある。

 

片隅の読書椅子から、辺縁にある知識や趣味を発信するのもいいかもしれない。