バベルの回廊にて

読書あれこれ

エミリーに薔薇を(ネタバレあり) ウィリアム・フォークナー著

フォークナーの仕掛け

フォークナーだけは英語で読みたいとずっと思ってきた。

何の作品だったか、最初にフォークナーを読んだとき、初めて「英語は美しい」と思った。

あたりまえだが、翻訳で読んでもそのリズムや音の美しさは伝わってこない。

 

英語は「音」の言葉という印象がある。

たとえ意味がわからなくても「音」と「リズム」が記憶に残る。

その音とリズムはどの言語よりすっきりしていると感じる。

 

この音とリズムを翻訳にうつすことの難しさと、結局翻訳ではこれは味わえないのだという悔しさ。

「エミリーに薔薇を」の仕掛けを知ると、それを痛切に感じる。

 

「エミリーに薔薇を」は、知る人ぞ知る、20世紀に書かれた短編小説のうちでも十指に入ると言われている名作。

ミステリーでもあり、ホラーでもある。

(ちなみにこの作品のように、ホラーと「愛」とが合体すると、格別の味わいが出るように思う)

 

英語もそれほど難しくなく、原文は辞書さえ引けばたいてい読めると思う。

ハードカバーで11頁かそこらのこの短編。

この短い物語のなかで何が起こっているのか。

 

エミリーはかつて南部の令嬢で、父とともに「邸宅」ともいえる屋敷に住んでいた。その父は若かったエミリーに言い寄ってくる男性をすべて退け、父が亡くなった時、エミリーはその屋敷に一人取り残されることとなる。

父が亡くなって次の夏、街に建設業者のホーマー・バロンという北部の若者がやってきて、彼女はバロンと外出するようになる。「北部の若者」とつきあうことは、街の女性たちにとって不謹慎なことに見え、彼らはそれを阻止しようと陰で動く。

ところがバロンは町から消え、それ以降、エミリーは殆ど家に閉じこもるようになる。ただ一人黒人の使用人だけが、家にいて、彼女の世話をしていた。

エミリーは年を取り、白髪になり、太っていく。

 

そしてエミリーは病死する。

好奇心を抑えきれない弔問客たちは、彼女が埋葬されるのを待って、40年間誰も入ることのなかった、二階の一室の扉を開く。

埃に覆われたその部屋は、まるで新婚夫婦の部屋のように薔薇色のカーテンで彩られている。しかしもちろん、その薔薇色はすでに色褪せている。

そして部屋には埃の積もった男性の身のまわりの品、スーツなども置かれていた。

 

弔問客たちは、部屋のベッドにホーマー・バロンを見つける。

すでに朽ち果て、骸になった彼の横には誰かが寄り添って寝た痕跡があり、客の一人はその枕の窪みから、白髪のひと房をつまみ上げるのだった。

 

このたった11頁の物語のなかで、フォークナーは南部の、土地と時代の制約のなかで生きた(生きざるを得なかった)女性の孤独と、その頑なさのなかに閉じ込められた儚い愛への希望を描き出す。

 

エミリーという米国南部の女性の孤立した寂しい一生、74年という歳月がここに凝縮されている。埃にまみれて。

 

フォークナーは、物語の中で、何かを「象徴」にして雰囲気を作り上げるのが非常にうまい。

この物語でも彼女の屋敷につもる「埃」(dust)が象徴的に使われている。

 

さて、英語で読まなければわからないフォークナーの「仕掛け」について。

フォークナーの物語では、いつも「始まり」と「終わり」の言葉が印象に残る。そういうふうに作られている。

 

この物語の終わり方。

枕の窪みから、エミリーの髪をつまみ上げるシーンが、最後のパラグラフになる。

“One of us lifted something from it, and leaning forward, that faint and invisible dust dry and acrid in the nostrils, we saw a long strand of iron-gray hair.”

 

一緒にこれを読んでいた友人が言った。

「ほら、最後のこのHAIRという言葉・・・・このH音で息を吐き出すでしょう? そうすると、その息で部屋の埃が舞うし、つまみあげられた髪が揺れるのよ」

それに気づいた友人も、もちろんフォークナーも、なんて天才なんだろう!

 

英語の息とともに舞い上がる埃。

確かにこれは、どうあがいても翻訳にはうつせない。

そうやって、私はどんどんフォークナーという天才にのめり込んでいくわけである。

      高橋正雄訳 (中公文庫)

     英語版(ハードカバー)