バベルの回廊にて

読書あれこれ

シブヤで目覚めて / アンナ・ツィマ著

「憧れ」の本質

 

読書歴はひとまず置いて、現在の読書に戻ろう。

 

「シブヤで目覚めて」は日本とチェコを舞台にしたチェコの作家による長編小説。

タイトルのシブヤは渋谷のことで、主人公ヤナの魂が閉じ込められてしまう場所。

 

本題に入る前だが、なぜ海外の人はあんなにも渋谷に惹かれるのだろう。

ソフィア・コッポラの映画「ロスト・イン・トランスレーション」でも、渋谷のスクランブル交差点が印象的にとりあげられていた。

 

「渋谷がきらめいている。ブルー、レッド、イエローの光が次々ときらめく。まるで万華鏡の中を歩いているみたいだ」(本書)

 

この物語の主人公はチェコの大学で日本語を学んでいるヤナという女性。

作家志望の彼女は、なぜか日本に惹かれ、三船敏郎に惹かれ、日本に行きたいという思いを持ちながら日本文学を勉強している。

彼女の研究対象は、ミステリー小説だが、それとは別に1920年代に「分裂」という小説を発表した川下清丸という作家に惹かれている。

川下の「分裂」という小説の中では、主人公は自分が調査していた殺人事件にとりつかれ、彼の魂は分離して事件の舞台となった四国をさまよい続ける。

そしてヤナは、この作家の「恋人」という作品を読もうと、本を取り寄せるが歯が立たない。

その小説を読み解くために、彼女はクリーマという同じ日本文学を研究している男性と親しくなる。

 

ところがその一方でヤナは、友人と出かけた日本旅行の最中に、魂だけが渋谷に取り残されてしまう。

どうやって脱出しようとしても、必ずハチ公前に帰ってきてしまう。

渋谷でさまよっている彼女は「幽霊」なので、誰の目にも触れないし、飲み食いする必要もない。

「幽霊」はシブヤから脱出するために、日本語の勉強をしながら、何年もの時間を過ごす。そしてヴィジュアル系バンドの青年「仲代」に目をとめ、幽霊の身ながら彼の危機を救ったりする。

ところが、幽霊ヤナは、東京に来たクリーマに出会い、なぜか彼だけはヤナを見ることができる。

クリーマに触れているとヤナはシブヤから出ることができ、二人はアキラ(仲代)を巻き込みながら、川下清丸の謎を解くために川越に出かけていく。

そして最終的に幽霊のヤナは川下の未亡人と出会い、未発表の未完小説「川を越える」を手渡される。そこでヤナの幽霊は消滅する・・・

 

この小説は、入れ子構造のような複雑な構成を持っている。

チェコのヤナとクリーマとアキラ、渋谷にいるヤナの幽霊とクリーマと仲代(アキラ)の物語、そのなかを一貫したテーマのように流れているのが、川下清丸の「恋人」という小説の翻訳進行。

その小説が謎解きのように、ヤナの翻訳とともに徐々にその全体像を見せてくる。

 

そしてもちろん、この「川下清丸」という作家は、作者の創造した架空の人物。

しかし彼がその時代の日本の作家との関連で語られるので、読者はあたかもこの作家が実在したかのように錯覚してしまう。

 

それに名前を引用される日本の作家、作品の多さに、チェコにではこんなに日本の作家の翻訳が出ているのかと驚かされる。

それを引用できる作者の知識量もすごい。

翻訳されていて当然ともいえる村上春樹三島由紀夫、阿部公房などの他にも松本清張高橋源一郎関川夏央横光利一などの名前が出てくる。

そして古典文学。一茶や伊勢物語などの他にも「古今集」の抄訳「行く水に数かく」という本が紹介されている。

そのなかのひとつの歌の翻訳がこの本に掲載されている。

 

凡河内躬恒 雪ふりて人もかよはぬ道なれやあとはかもなく思ひ消ゆらむ

 

(翻訳)

人なき道に

雪降りて

足跡を消す

我は道、悲哀は雪

我が足跡を辿る者いずこに

 

「これを読んで初めて、文学や詩は何百年も離れた人々の感情を結びつけることができるのだと意識した」とヤナは言う。

 

この小説は、「憧れる」という心情の本質を描いているのではないだろうかと、私は思う。

ヤナは遠い日本に憧れ、過去の作家、川下に憧れ、魂だけが渋谷を彷徨う。

川下清丸の作品でも、主人公はとある殺人事件に魅了され、魂が四国を彷徨い続ける。

そして彼は「水」にも魅了され、入水自殺をしてしまう。

 

「大事なのは、何かに惹きつけられたと思ったら、その内側から崩れていくところ」

作中人物クリーマは、意味深長な言葉を言う。

 

時空を超えて何かに惹かれ、その「何か」に手をのばそうとして、自分自身の内部が現実と幻想の狭間で引き裂かれてしまう。

「憧れ」とは、きっとそういうものなのだ。

 

アンナ・ツィマ 阿部賢一 須藤輝彦訳 河出書房新社 2021 

Anna Cima,  Probudim se na Sibuji ©2018

 

Anna Cima 1991年 プラハ生まれ カレル大学哲学部日本研究学科を卒業後、日本に留学 本書で2018年デビューし、チェコ最大の文学賞であるマグネジア・リテラ新人賞、イジー・オルテン賞、「チェコの本」文学賞受賞