バベルの回廊にて

読書あれこれ

血と言葉      マリ・カルディナル 著

溢れる言葉から見えてくるもの

 

突然だが、健康診断会場で採血のときに気分が悪くなって倒れる男性がまれにいる。

そういう男性を見ながら女性ナースは、多分心のなかで「くっ」と笑いをこらえているに違いない。

「これっぽっちの血で!?」

採血で驚いていたら女性はつとまらない。

女性は閉経まで月毎におびただしい量の血を眺めながら生きるのだし。

 

さて、この小説の主人公は、その経血が止まらなくなる。

彼女は三児の母だが、出血し続けるという症状とパニック障害を抱えている。

どの病院に行っても症状は治らず、万策尽きて、とある路地裏の精神分析医を訪ねる。

その医師は彼女に「それは心身症の症状です。私には関心がありません。他の話をしてください」と言う。

その乱暴な言葉にショックを受け、彼女は医師の前で泣き始める。それは彼女にとって久しぶりの涙だった。そして自分の苦しい感情について語り、その部屋をあとにする。

その晩、なんと彼女の出血はとまるのである。

それから、流れていた血は言葉の流れに変わる。

 

これは、とある女性の7年間にわたる週3回の精神分析の記録という形をとった物語。

 

治療費を稼ぐために働きながら、彼女は毎週3回その医師のもとへ通い、語り続ける。

彼女が語ったのは、自分の人生の物語、そして母のことである。

 

フランス領アルジェリアに生まれ、フランス人として使用人の家族に囲まれて暮らした日々。

母は28歳で父と離婚し、信仰にしがみつき、近隣の貧しい人たちや病んだ人たちを無料で治療し、疲れ果てて家に帰ってくる人だった。

その無料奉仕は、母が晩年に無一文になっても依怙地に続けられた。

 

母は信じるその教義で彼女に侵入し、罪悪感を植え付ける。

夫が結核になり、家が破産同然のときに母は彼女をみごもる。

赤ん坊のとき亡くなった最初の娘の墓前で泣きながら、母は、お腹の子を堕胎しようとどんなに工夫を尽くしたか、当の彼女に語るのである。

かといって娘に無関心というわけでもなく、長男がいながら、死ぬ間際まで彼女にしがみつくのだ。

晩年の母はニコチン依存であり、アルコールにも依存するという悲惨な姿を彼女にさらし、自殺同然の死に方をする。

 

上記のようなプロセスが、幼児期からの様々な記憶、無意識に潜んでいた感覚、時をさかのぼる夢などを織り込んで語られていく。

まるで頁から言葉が溢れてくるような本だ。

ひとつの描写のなかで言葉は言い換えられ、たたみかけられ、重ねられ、同じ意味が繰り返されるように見えながら、指し示すところが変化していく。

著者は言葉の積み重ねのなかで、心の微妙な部分、周囲の人間のありさま、社会の変化、そして社会のなかの女性のありかたに踏み込んでいく。

 

確かに、大量の言葉は私たちを迷路に誘うこともあるけれど、ものごとの単純化を阻む役割も持つかもしれない。

ある人にとっては、この物語の母は「毒親」のひとことで済んでしまうのかもしれない。

毒親」というわかりやすい説明語は、昨今とても好まれている。

それは単純化の極致のような言葉だ。

しかし著者は、言葉を重ね、表現を続けることによって、この「母」との数々の場面を描写し、母の立場に立ち、母の心にあった多様な側面を理解していく。

 

「彼女(母)の階級意識は、彼女が自活することも、女性に許された限度以上に精神を鍛練することも禁じていた。そうでなければ、母は天才的な外科医にも、創造的な建築家にもなれたはずなのに・・・。それはご法度だった!」

 

言葉を重ねることによって、彼女は女性である自分自身の肉体を理解し、同じ女性としての母を理解し、自身や母をとりまく「社会」を理解していく。

 

「私の、母の、そして黒衣の女性たちの身をすくませた恐怖は男根に対する恐怖ではなく、男性の権力に対する恐怖だったのだ。その権力を共有しさえすれば、恐怖は遠のく。もし、私自身が社会でなんらかの役割を果たしたかったら、私は身近なもの、自分が最もよく知っているもの、すなわちジャンピエール(夫)と子供たち、私たち5人、一家族、小宇宙、社会のパン種から出発しなければならない」

 

そして彼女は今まで既成の価値観のなかで営まれていた家族関係を見直し、夫との関係も再構築していく。

フロイト的な男女の「性」というところから、社会での性役割、そして社会の構造を著者は再考していく。

それも長い間の自己分析のなかから紡ぎだしていくのだ。

 

「激しい闘いを経て、遂に、うららかな春の陽光のもとに、晴れて母を愛せるとはなんとすばらしいことか。ともに属する階級の闘技場で、寸分の隙間なく武装し、爪をむき出しにして闘った二人の盲者。母の痛撃、私の猛毒!なんと残忍非道な闘いであったろう。精神を病まずにいたら、私はこの闘いから脱出することはできなかっただろう」

 

 

昨今、言葉というものはむしろ片隅に追いやられているのかもしれない。

本はなるべく文字を大きく、なるべく早く読めるように、冗長と思えるものは避ける、難しい言葉は簡単な言葉に言い換える。

そんな傾向がある。

確かに五感に訴えるものも貴重だとは思う。

しかしこの著作を読むと「文学」というもの、「言葉」というものが持つ力が再認識できる。

ものごとを単純化したり、極端化したりする傾向は、溢れる言葉やストーリーによって崩されてしまう。

 

人間が生み出した「言葉」や「文学」がどれだけ大切なものか。

それを考えさせられた本だった。

 

「血と言葉」Les Mots pour le Dire/The Words to Say It (1975)

  柴田都志子・訳、リブロポート (1983)

マリ・カルディナル、Marie Cardinal (1929-2001) フランスの作家、女優