バベルの回廊にて

読書あれこれ

ヴァルーナ  ジュリアン・グリーン著

この世の向こう側

 

今、自分が見ている現実だけが「世界」のすべてだと信じている人はどのくらいいるのだろうか?

日々、様々なことが生起しているこの地球で、生きて死んでいくこの人生。

そんな毎日のなかで、ふと「この世の外」のことを考える人のほうが多いのではないだろうか。

 

私が死んだら、「私」はどうなるのだろうか?

私の意識は、本当に私だけのものなのだろうか?

何か遠くのものと感応しあったりしているのではないだろうか?

 

そんな問いに答えるために生まれてきたのが「宗教」だろうし、流行のスピリチュアリズムだったりするのだろう。

 

この「ヴァルーナ」は、カソリックの作家、ジュリアン・グリーンの書いた「輪廻」についての物語。

 

「ヴァルーナ」は「ホエル」「エレーヌ」「ジャンヌ」の三章で構成されている。

そしてこの三つの物語をつなぐのが、不思議な一本の鎖(首飾り)。

共通して登場するのは鎖という「もの」であって、「人」ではない。
そしてこの鎖を手にした人は、自分の前世のかすかな記憶を思い起こす。

鎖は、生まれ変わった人の手に次々と渡されていくのだ。

 

この三人は決して特別な人たちではない。

歴史のなかに埋もれ死んでいった普通の人たちである。

千年ほどの時間のなかで、鎖は生まれ変わった人から人へと手渡されていく。

 

手渡された人たちは、しかし現代のドラマなどのように、生まれ変わって愛し合い、自分の前世をはっきりと思い出すなどということはない。

ホエルは途中で鎖をなくし、ホエルを待ち続けた運命の人モルガーヌを殺してしまう。

モルガーヌの生まれ変わりであるエレーヌは、ホエルの生まれ変わりである父によって不幸な運命に追いやられる。

エレーヌの生まれ変わりであるジャンヌは、エレーヌの生涯を小説にしようと努力しているが、ある日、大英博物館で一本の鎖を見たときこの鎖は自分のものだったという強烈な感覚にとらえられる。そしてエレーヌの夫もこの鎖を見た瞬間にかつてこの鎖を見たことがあるという衝撃を受ける。エレーヌの夫はホエルの生まれ変わりなのである。

 

物語は明確にはっきりと輪廻の道筋を示してもいないし、その理由を示してもいない。

輪廻という部分に関しては曖昧なのだ。

まるで眠りのなかで垣間見る夢の世界のように。

もしかしたらそうかもしれない・・・、なんだかそんな思い出があったようだ・・・。

しかし確かではない。

そんな雰囲気が物語全体を包んでいる。

 

「・・今でも私の心をかき乱すのは、ひとりの人間の生がほとんどいつも不完全に思えることである。ひとりの人間の生は、ある長いメッセージの中の孤立した断片に似ていて、そのメッセージの、しばしば解説できない、わずかな一部分しか、私たちに与えられていない」(ジュリアン・グリーン、「ヴァルーナ」序)

 

けれど三人の人生の輪郭自体は、明瞭な物語として描かれている。

ある意味、輪廻というものを描きながら、この小説はとても現実的なものなのかもしれない。

なぜなら、「この世の向こう側」は、こんなふうにしか私たちには見えないということを描いているのだから。

 

この世の限界、私たちの意識の限界。

この小説を書いているとき、作者のグリーンは、カソリックに回心したという。

そうしてみると、最後にジャンヌの夢のなかで、エレーヌがジャンヌの首の鎖に十字架を重ねたのも何かを暗示しているのかもしれない。

 

作者はこの作品で、この世の向こう側を含む人間の生というものの全体をとらえたかったのかもしれない。

「わたしたちの考えることはどこからやってくるのだろうか。測り知れないほど遠い彼方からなのだ。たったひとりの人間の頭脳のなかに人類がゆっくりおさまっている。わたしたちひとりひとりが、自分だけで人類全体なのだから。」(「ヴァルーナ」ジャンヌの言葉)

 

ユングのように、人間の意識、無意識を理論化しようとしても、結局はその理論が確かなものかどうかは、誰にもわからない。

わたしたちはいつも不確かな感覚のなかに取り残され、永遠の疑問符を持ち続けるだけの存在なのかもしれない。

 

注:「ヴァルーナ」は、古代インドのヴェーダ神話の首位を占める神。全知全能で、日月の運行、四時の循環を司り、死を遠ざけ、長寿を与えるとも言う。

 

注:ジュリアン・グリーン、Julien Green(1900-1998) フランス、米国の小説家。米国人の両親の元、パリで生まれる。ピューリタンだったが、後にカソリックに改宗。日本では人文書院から全集が出ている。

 

 

 

「ヴァルーナ」ジュリアン・グリーン高橋たか子訳(人文書院、1979年)