黒んぼのペーター
「黒んぼのペーター」エルンスト・ヴィーヘルト/國松孝二 訳
(岩波少年文庫 106)
のっけから、ポリティカル・コレクトネスに抵触するようなタイトルの書籍。
タイトルにある「黒んぼ」とは、この物語の主人公が炭焼き人の息子で毎日真っ黒になって炭を焼いているのでつけられたあだ名で、人種的な意味合いはない。
この本には、タイトルにある物語を含め7編の童話が収録されている。
発行はなんと昭和30年。
今となっては、入手はとても難しい本だと思う。
その頃、日本ではヴィーヘルトの本はいくつか出版されていたようだが、多分もう図書館で見つけるしかないだろう。
読書ブログを書こうとしたとき、自分の印象に残っている一番古い本はと考えて、この本を思い出した。
私は小さい頃からいわゆる「本の虫」だったから、世界の名作と言われるものを含め、かなりの数の本を読んでいたと思う。
けれど何よりも強烈なインパクトを受けたのがこの童話集。
まるで子供向け物語という花園のなかに突然ブラックホールが出現したようだった。
童話集なのにも関わらず、この本はとにかく暗い。
物語はすべてハッピーエンドなのだから、暗いはずがないのだが、なぜかイメージに蘇るのは暗い森の奥、洞窟、荒涼とした旅路。
その暗さを際立たせているのが、ハンス・マイトという人による挿絵。
この独特の挿画に気持ちを奪われて、それで印象に残っていたのかもしれない。
しかし、あらためてこの物語を手にとり、訳者の解説を読んで、この暗さの意味が理解できた気がした。
著者のヴィーヘルト(Ernst Wiechert,1887-1950)は、ナチスの時代に生きたドイツの作家。
大学で反ナチの講義をしたことで強制収容所に送られ、解放されてから東プロシャという片田舎にこもって執筆を続けた。
1945年から1年間に40篇の童話を書いたという。
この童話集の一篇「もうない鳥」は王国奪還の物語である。
暴虐を極める王は、慈悲の心を持った王妃と三人の息子を処刑してしまう。
しかし末の王子は、領民たちの手によって救い出され、森の奥で成長する。
彼は自分が何者かも知らず、森のなかで自然と交流して暮らす。
「(王子は)あらゆる動物と友だちになり、あらゆる草となじみになりました。高いモミの梢も、王子がやってくると、ざわざわ音を立てておじぎをし、澄んだ泉も、親しそうに、王子の素足のまわりにさらさらと水音を立てました。
しかし、王子はいつでも、まだこれがさいごではないというような気がしていました。いつかそのうち、動物も草も、木々も泉も、自分に話をはじめるだろう、そしてそのときには、自分の思い出のうしろを閉ざしている霧の壁が、音もなく開くだろう、というような気がしていました」
王子は森のなかで成長し、やがてアダムとイブが楽園を出ていくときに鳴いたという「もうない鳥」を携えて、王のいる「死の都」へと向かう。
暴虐な王は「もうない鳥」の鳴き声を聴くと、何も生み出すことができなくなり、自害して果て、王国は王子のものになる。
もちろんこの王国が何を表しているかは、今となっては誰でもわかること。
ヴィーヘルトの童話には、幼い人が様々な修練や体験を経て、幸せになっていくというモチーフのものが多いようだが、彼らが体験するのは力や武芸の修行ではない。
幼い人は、動物や森の木々や花々という自然に囲まれ、素朴な農民や不思議な小人たち、魔法使いなどに導かれて、正しい心、清い心を育んでいく。
またこの童話集のなかの「沼の主モールマン」では、異形の者、社会からはじき出された者への共感も語られる。
ヴィーヘルトはもう二度とナチスのような歪んだ帝国を生み出さないために、若い世代に希望を託したのだろう。
記憶のなかから探り当てた本だが、こんな時代背景だったのだと改めて知ることができたのは収穫だった。
そして考えてみると、思春期にもならない頃に読んだこの童話集、特に「モールマン」という異形の原型への共感は、私のなかに棲みついているような気がする。
まだまだ心が柔軟な時代に接する文章やアートは、その人の人生に決定的な色づけをする。
至極当たり前のことだが。